今回は、 さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」さんの記事を転載させていただきます。
湯川秀樹という日本の理論物理学者の「正体」を御紹介したいと思います。

(引用開始)
戦時中、日本で一日も早くその完成が待たれていたものがありました。マッチ箱一つの大きさで戦艦を沈めるといわれていた新兵器です。これは原子爆弾のことです。仁科芳雄博士の研究では実験段階ではすでに完成していました。しかし、その基礎理論が完結せずに、理研内では研究員たちが手分けして研究にあたっていました。
そして、核分裂の理論が一応のまとまりをみたとき、これを一つの学説として発表してはどうかという意見が出ました。
「軍の機密に属することでもあり、早計に外部に洩してはならぬ」という仁科博士の意見で発表は厳禁とされました。しかし、当時理研にいた研究補助員の湯川秀樹がこの資料を米国に売り渡したのです。米国は終戦後、湯川のこの功績を論功行賞としてノーベル賞を授与させました。
当時の日本の核の理論は米国より進んでいました。あの資料をユダヤ人に渡さなければ原爆の悲劇は避けられたかどうかは定かではありません。しかし、湯川は米国のためになったことでノーベル賞という褒美がもらえたのです。
「湯川博士は日本人初のノーベル賞受賞で、戦後自信を失っていた日本人を力づけた」と言われていますが、しらじらしい限りです。また、広島平和公園の「若葉」の像の台座に湯川秀樹の短歌があります。
「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる人のみぞここは」
原爆で多くの日本国民を苦しめて殺した米国の手先である湯川の短歌が広島平和公園にあること自体、被爆国として許せないことです。(引用終わり)
しかも湯川は、昭和18年に文化勲章、位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章も賜っているのです。戦後教育のウソが暴露されるにつれ、私たちは真実の歴史をしっかりと再検証しなければなりません。
昭和24年といえば、占領軍(GHQ)によって占領されていた時代でした、そこには、日本の主権がありません。憲法も教育基本法もマスコミも言論界もすべて米国に委ねられ、日本人の自由な発想も制限されていた時代でした。その中にあって日本人初のノーベル賞受賞など、どう見ても米国のために尽力したものしか考えられません。これを見ても占領軍(GHQ)による巧妙な占領政策が垣間見えるというものです。
当時の米国はマンハッタン計画で既に製造法を検討していた。湯川が発見したのは原子核の中の構造、陽子と中性子の間に働く「中間子」の存在を、既成理論から導出しただけで、原爆開発には全く不要なものである。湯川なんぞ居らずとも原爆は完成した。既にラザフォードとリーゼ・マイトナーが核分裂の実験に成功しており、アインシュタインの提唱する理論を実証実験で確認したからだ。
日本は理論レベルで核分裂を知っていたが、ウラン濃縮方法は確立できなかった。6フッ化ウラン化合物を大量に集めたが、その分離方法も結局確立できなかった。科学に遅れた日本の技術など何の足しにもならぬ。