2016年12月06日

日本人の功績bS

 我が国では、唯一の地上戦と聞くと「沖縄」と答える人が大半を占めていますが、終戦後に行われたもう一つの地上戦こそ「占守島の戦い」なのです。
昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ連合国に無条件降伏しました。しかし日本軍の戦いはまだ終わってはいなかったのです。
原因はソ連であります。8月8日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍は即座に進撃を開始しました。目的は、満州、朝鮮半島、そして北海道の占領と共産化です。  条約は破棄後も一年間は有効とされていたので、日本軍は不意を突かれる形となってしまったのです。
8月15日を境に連合軍が戦闘を中止しても、ソ連軍だけは日本軍への攻撃を続行したのです。
「終戦とは降伏文書に調印されてはじめて成るものである」
この理屈の元に猛進を続けるソ連軍に対し、関東軍を軸とする北方方面軍は終戦後も戦闘続行を余儀なくされたのでした。
約75万人の関東軍は、山田乙三大将指揮の下に満州各地の要塞に篭って防衛を試みました。しかし精鋭部隊を南方戦線に引き抜かれ、装備も旧式しかありません。しかもドイツ軍相手に経験をつみ、最新鋭装備を揃えたソ連軍を食い止めることは不可能だったのです。日本軍はソ連軍に蹴散らされ、逃げ送れた民間人はソ連軍の暴行や略奪の前に次々と命を落とし、シベリアへと連行され、あるいは絶望に負けて自ら命を絶っていったのです。満州攻略の目処を付けたソ連軍は、北海道攻略の足がかりとして8月17日に千島列島侵攻を開始します。ソ連軍兵力は約8300人。この野望を妨げるべく立ち上がったのが、樋口季一郎中将貴下の第五方面軍だったのです。

樋口は北海道を守る第五方面軍の司令官に就任しました。主戦場から遠く離れているため、アッツ玉砕やキスカ撤退戦以外に目立った戦闘はなく、第五方面軍は多数の戦力を残したまま終戦を迎えることとなったのです。
8月15日の玉音放送は第五方面軍にも大きな動揺をもたらしました。敵を欺くための謀略であると考える将校も少なくありませんでしたが、翌16日に大本営から発せられた戦闘停止命令を前に、終戦は事実であることを知ることになったのです。
しかし樋口の戦争はまだ終わっていませんでした。 武装解除の準備を進めていた8月17日、千島列島の占守島守備隊から国籍不明軍による攻撃を知らせる通信が届いたのです。樋口はすぐに、攻撃がソ連軍の仕業であることを知ります。ソ連の目的が北海道侵攻である事は明白です。大本営から攻撃停止を命令されていますが、素通りさせれば確実に北海道はソ連に蹂躙されることになります。  指示を求める守備隊に対し、樋口は断固とした態度を持って命令文を打電したのです。
「断乎、反転に転じ上陸軍を粉砕せよ」

 大本営は積極的戦闘を禁じてはいましたが、自衛戦闘であれば18日までの続行を許していたのです。占守島を守備していたのは、第五方面軍第九十一師団の歩兵第七十三旅団を中心とする約10940人の日本兵です。
樋口から反撃の許可を得た守備隊は即座に反撃を開始しました。最初にソ連軍と放火を交えたのは独立歩兵第二百八十二連隊でした。18日午前1時、竹田浜に防衛線を張った連隊は、上陸部隊に集中砲火を浴びせて大打撃を与えたました。しかし装備に劣る日本軍は徐々に押されていき、ついには竹田浜を放棄して四嶺山の壕へと退避することになったのです。
劣勢となった日本軍を救ったのが戦車第十一連隊である。戦車約60両を有するこの部隊は、愛知県豊橋市出身の池田末男陸軍少将を隊長とする「士魂部隊」と呼ばれる北方最精鋭の戦車隊でした。                                         池田末男陸軍将                                  埋め込み画像 1                            午前5時、島南部より出撃した部隊は山を包囲していたソ連軍を背後から強襲。戦車を用意していなかったソ連兵を次々と蹴散らし友軍の救出に成功します。四嶺山を死守した日本軍は、兵力を結集させて竹田浜奪還を目指して攻勢を強めていった。対するソ連も態勢を整えて日本軍を迎え撃ち、戦局は降着状態に陥っていきます。
ソ連の行動を知ったアメリカ軍と大本営はすぐさまソ連に停戦を求めましたが、しかしソ連は両国の要求を受け入れず、日ソ間で停戦交渉が成立したのは21日のことでした。
日本軍は、大本営が定めた期限を過ぎても防衛戦を続けていました。21日となっても戦闘は止まず、やっと日本が武装解除したのは23日になってからでした。日本軍の最終的な死傷者は約1000人、ソ連軍は約1500〜4000人。日本軍は最後までソ連軍に優勢を保っていたのです。
ソ連軍の独断専行に憤りを覚えたアメリカは、ソ連に北海道侵攻を諦めるように忠告し、占守島攻略に手間取っている隙に、北海道への進駐を終わらせてしまったのです。
それでもソ連は諦めず、進駐軍に北海道の譲渡と樋口の身柄引き渡しを要求してきました。しかし以前、樋口に助けられたユダヤ人が多数アメリカに在住しており彼らが樋口の助命に大活躍し、結局ユダヤ人の力はアメリカを動かしマッカーサー司令部にも伝わり樋口は戦犯にはならなかったのです。
こうしてソ連の北海道占領計画は夢へと終わりました。
大本営に背いて18日以降も戦闘を続けた樋口らの行動は、他の連合国も戦闘を再開する可能性が少なくい危険な行為であったのです。しかし、もし樋口が戦闘を決断しなかったら、ソ連の北海道上陸が成功して、最低でも北海道の半分は確実にソ連のものとなっていたかもしれません。その危機を回避したのが樋口ら第五方面軍の奮戦だったのです。眼前の破滅を回避するべくあえて戦いを選んだ樋口の勇気が、北海道をソ連の魔の手から救ったのです。

黄金の碑(ゴールデンブック)
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ゴールデンブックには同族(ユダヤ人)の出身で世界的に傑出した人物の名を代々登録され、その功績を永遠に顕彰しています。
ユダヤ人しか登録されないはずのゴールデン・ブックに、6名の日本人が登録されています。安江仙弘陸軍大佐、樋口季一郎陸軍中将、小辻節三博士、内田康哉外務大臣、手島郁郎、古崎博。そして、犬塚大佐にも、ユダヤ人保護工作への感謝から、ユダヤ人の恩人としてゴールデン・ブックに記載したいという申し出があったそうです。
しかし、犬塚大佐は、「私は陛下の大御心を体して尽くしているのだから、しいて名前を載せたければ陛下の御名を書くように」と、これを固持しました。
                                                        犬塚惟重(いぬづか これしげ)・海軍大佐
                                           埋め込み画像 3                                         日米開戦後も犬塚大佐のユダヤ人保護工作は続いていたのです。
昭和17年1月、ナチスがユダヤ人絶滅の決定をした頃、上海ユダヤ人絶滅のためにドイツで開発したガス室を提供するという申し出があったそうです。
犬塚大佐は、断固としてこれを阻止してくれた、というユダヤ人の証言もあります。
大戦中も「上海は楽園でした」という詩を当時の難民生活を経験したユダヤ人女性が残しています。
その楽園の守護者とは、海軍大佐犬塚惟重氏だったのです。
                                         これらは日本人がかつて神武建国の精神である八紘一宇という支柱があったからに他なりません。八紘一宇とは「八紘」=世界、「一宇」=ひとつ、つまり、世界はひとつという概念なのです。
私たち、現代を生きるものとして先人のこうした功績を称えつつ、後世に本来ある日本人の精神を伝えていかなければなりません。

posted by きむじい at 12:02| Comment(0) | 日記
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