アッツ島の戦いでは、2,638名が玉砕し、生存者は僅か28名だけとなりました。
そして、生き残った28名の内の1人が後の取材に対して、「自決あるいは突撃を強要された」という趣旨の発言をしたと伝えられています。 また、もう一人の生存者の証言には「私はもう、二度と戦争はしたくない」と記されています。
アッツ島の戦いで生き残った方の証言は大変貴重でありますが、果たして生存者が本当にそのようなことを言ったのか、はなはだ疑問です。
なぜなら、この生存者が話した内容の全てを、メディアが伝えているとは限らないからであります。長い話の一部を切り取り、時には繋ぎ合わせることは戦前も戦後もマスコミの常套手段だからです。
「私は、二度と戦争はしたくない」と言った生存者は、次のような証言もしているのです。 「でも、もし国土を侵されるようなことかあれば、また何時でも武器を取るつもりだ。」 このように前後をつなぎ合わせると全く別の意味合いになるのが分かると思います。このような情報操作を現在でもやっているのが日本のメディアの現状なのです。
(キスカ島救出作戦)
樋口陸軍中将は、大本営からの援軍見送りに対し、激怒した樋口中将は、アッツ島の救援に行かない代わりに、約6、000名の人員を残すキスカ島への救出作戦を実行することを大本営に約束させたという記録があるのです。
これは、昭和18年7月29日に行われた日本軍の北部太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦で、キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれています。。
何をもって「奇跡の作戦」とされていたのでしょうか。この成功の背景にはいくつかの奇跡的な偶然に助けられたといいます。
その偶然の一つ、日本側が作戦を実行する3日前の7月26日、米艦隊はレーダーに謎の艦影を補足。日本艦隊と判断して猛烈な砲撃を加えるも、濃霧のため目視確認が厳しかったことと弾薬が尽きたことから、補給のため戦線を一時離脱しています。ではこの米軍が補足した謎の艦隊の正体は何だったのでしょうか。
それは、キスカ島では、濃い霧がしばしば発生していました。日本軍の救出作戦は、キスカ島の反対側のコースをとっていました。反対側の海域は、調査があまりされていないのと浅瀬が多く更に海流も早い為、日本軍は、一列になって進みキスカにいた友軍を救出しました。霧はアメリカ艦隊のいる海域でも発生していました。つまり日本軍は霧を上手に使ってアメリカ艦隊の裏をかいたわけです。ですから霧の中に映った船影は、アメリカ艦隊つまり自国の船だったのです。
この時の実行部隊海軍司令官は、この救出作戦のために樋口中将に指名されたのが木村昌福少将でした。

7月29日昼の12時に艦隊はキスカ湾に突入。 濃霧の中の突入だったため座礁や衝突の危険がありましたが、突入直後に一時的に霧が晴れる幸運があったのです。
艦隊は13時40分に投錨し、ただちに待ち構えていたキスカ島守備隊員約5,200名を上陸用舟艇(大発)のピストン輸送によりわずか55分という短時間で迅速に収容しました。
この際使用済の大発は回収せずに自沈させ、陸軍兵士には持っている小銃を投棄させて身軽にしたことも収容時間の短縮に繋がりました。
守備隊全員を収容後、ただちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱。直後からまた深い霧に包まれ空襲圏外まで無事に離脱することができたのです。
ここに戦史史上極めて異例の撤退作戦が完了しました。
キスカ島を包囲していたアメリカ海軍は、 7月26日、濃霧の中「ミシシッピー」のレーダーが15海里の地点にエコーを捕捉。艦隊各艦からも同様の報告を得て直ちにレーダー射撃を開始させ、約40分後に反応は消失です。 日本の艦隊を撃滅したと確信した米海軍は弾薬補給のため一時艦隊を後退させます。
補給を終わり、封鎖を再開したのが7月30日。
それは、アメリカ軍のいなくなった7月29日に、日本艦隊が突入し撤退を完了した形になる。
キスカ島への攻撃を再開したアメリカ軍は、8月15日、艦艇100隻余りを動員、兵力約3,4000名をもってキスカ島に上陸します。
艦隊による十分な艦砲射撃を行った後で濃霧の中一斉に上陸を開始したアメリカ軍は、存在しない日本軍兵士との戦闘に備えて極度に緊張した状態で進軍した為、各所で同士討ちが発生。 死者約100名、負傷者数十名を出してキスカ島攻略を完了しました。
上陸したアメリカ軍の見たものは、遺棄された数少ない軍需品と数匹の犬だけです。
また、日本軍は軍医の悪戯で『ペスト患者収容所』と書かれた立て看板を兵舎前に残し、これを見たアメリカ軍は一時パニック状態に陥り、緊急に本国に大量のペスト用ワクチンを発注したと記録されています。
こうして、奇跡と呼ばれるキスカ島救出作戦を成功させたのです。
次号へ続く