2016年11月20日

日本人の功績bQ

 ナチス・ドイツの迫害から逃れるため、家畜同然に列車に詰め込まれ、命からがら極東の地にたどり着いたユダヤ人たちを待っていたのは満州国からの非情な入国拒否。
生きて第三国に渡るためには引き返すことなど出来るはずもなく、気温が零下30度にも達する極寒のシベリア鉄道オトポール駅において、進退窮まり立ち往生するユダヤ人たち。これがいわゆる「オトポール事件」でありました。

樋口は事件の一報を聞くやいなや、軍部の反対を押し切り彼らに救いの手を差し伸べ、食料も底を尽き、餓死と凍死の危機に瀕していたユダヤ人の命を救いました。
人道的見地からみれば賞賛されるべき樋口の行動であったが、彼の置かれた立場では事はそう簡単にはおさまらなかったのです。
というのも、樋口は単なる一市民ではなく、あくまでも大日本帝国陸軍の軍人であり、関東軍においては将軍の地位にあったからであります。
そのような立場にある者が、同盟国であるドイツを非難する演説を極東ユダヤ人大会で行い、さらにはドイツの国策に反してユダヤ人を救出したことは大きな外交問題へと発展。当然のようにドイツは激怒し、ヒトラーの腹心であるリッペントロップ外相がオットー駐日大使を通じ、日本外務省に対して公式の抗議書が届けられました。
 これに動揺した外務省欧亜局は、ただちに抗議書を陸軍省に回送。その後抗議書は樋口が籍を置く関東軍司令部へも届けられました。
外務省、陸軍省内部では樋口の独断を問題視する声が相次いでいましたが、ここにきて関東軍内部でも樋口に対する処分を求める声が強まっていったのです。
これに対し樋口は、関東軍司令官植田謙吉大将に自らの思いをしたためた手紙を書き郵送。
『小官は小官のとった行為を決して間違ったものではないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもないはずである。法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない。』

さらに関東軍司令部に出頭した樋口は東條英機総参謀長と面会。自らの決断の正当性をきっぱりと主張した。

『ヒトラーのおさき棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか?』

 結局、この言葉に納得した東條は樋口に対して懲罰を科すことはしませんでした。さらに東條はドイツからの再三の抗議に対しても「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」とこれを一蹴。
「カミソリ東條」とも揶揄され、頑迷で強引な性格で知られる東條だが、一方で道理の通った話には理解を示す人物だったのです。
関東軍司令部内での樋口を非難する声は東條の決断を受け下火となり、植田軍司令官もこの決断を支持したことによりこの問題は一気に鎮静化。
ドイツの抗議は不問に付されることとなりました。
アッツ島の戦い
  「オトポール事件」から3年後の昭和16年12月8日、日本は米国・英国に宣戦布告し、ついに大東亜戦争が開戦します。
ハルビン特務機関長の任を終えた樋口は、参謀本部第二部長や、金沢の第九師団長を務めた後、昭和17年に札幌の北部軍司令官に赴任。この軍司令官時代に、樋口はアリューシャン列島のアッツ島・キスカ島の戦いと、占守島の戦いという重要な局面に立ち向かうことになるのです。

昭和18年4月18日、北部軍司令官として赴任していた樋口はアッツ島に対して新たな守備隊長を選んで送り出しました。それが山崎保代大佐であります。

埋め込み画像 2                      「アッツ島に事あらば、万策を尽くして増援する」

 山崎はその言葉を受け、樋口に全幅の信頼を寄せてアッツ島へ着任しました。

同年5月12日、いよいよ米軍のアッツ島への攻撃が開始です。

報せを受けた樋口は、武器・弾薬・食料・資材などを輸送する準備を始め、山崎との約束を果たすべく増援部隊を送るための懸命の努力を重ねていました。

 ところが、そんな樋口のもとに、5月20日、大本営より驚くべき内容の電報が届けられるのです。「アッツ島への増援を都合により放棄する」つまり、アッツ島の守備隊は見殺しにする、という非情な通告であったのです。
5月21日、樋口は断腸の思いでアッツ島に向けて増援ができない旨の電信を送ります。
『中央統帥部の決定にて、本官の切望せる救援作戦は、現下の情勢では不可能となれり、との結論に達せり。本官の力及ばざること、誠に遺憾に耐えず、深く陳謝す。』 
 これに対し翌22日、山崎大佐からの返電は『戦さする身、生死はもとより問題にあらず。守地よりの撤退、将兵の望むところにあらず。戦局全般のため、重要拠点たるこの島を力及ばずして敵手に委ねるに至るとすれば、罪は万死に値すべし。今後戦闘方針を持久より決戦に転換し、なしうる限りの損害を敵に与え、九牛の一毛ながら戦争遂行に寄与せんとす。なお、事後、報告は戦況より敵の戦法およびこれが対策に重点をおく。
もし将来、この種の戦闘の教訓としていささかでもお役に立てれば望外の幸である。
その期至らば、将兵一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず。』
 覚悟を決めた山崎からの返電には、見捨てられたことへの恨み事など一切ありませんでした。司令部作戦室は水を打ったように静まり返り、無念のあまり嗚咽さえ漏れたという。その後、昭和18年5月29日、山崎大佐よりの最終打電です。
『アッツ全戦線を通じ、戦闘し得る者僅々一五〇名となったから、本夜、夜暗に乗じ全員敵中に突入する考えである。私共は国家民族の不滅を信じ散華するであろう。
閣下の武運長久を祈る。各位によろしく伝達ありたし。天皇陛下万歳。これと共に通信機を破壊する。』
 戦死者は2、638名でありました。こうしてアッツ島攻略戦はわが国初の玉砕戦として幕を閉じたのです。 なお、アッツ島での玉砕直後に、悲報を耳にされた昭和天皇は「アッツ島守備隊は最後までよく戦った」という惜別の電報を、すでに受け手のいなくなったアッツ島に向けて発するように命じられたという逸話が残されています。   次号の続く

 
posted by きむじい at 06:56| Comment(0) | 日記
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