以前、平成26年8月4日付けの本誌「黎明」に投稿した、「日本人が知っておきたい戦争の真実パート2」 で樋口季一郎の功績を簡単ではありましたが、紹介しましたが、今一度、樋口季一郎の功績や当時の背景、樋口にまつわる関係者などを詳しく御紹介したいと思います。
戦前、ユダヤ人難民6000人を助けた日本人といえば、「杉原千畝」が有名ですよね。そして、現在では映画化にもされている実に素晴らしいお話があります。
しかし、杉原千畝の「命のビザ」より2年前、約2万人以上のユダヤ人難民をナチスから助けた日本人がいました。
オトポール事件
オトポール事件というのは、昭和13(1938)年3月にモンゴルと満州の国境付近にあるオトポール駅で、旅費も食事も防寒服も満足になく凍死寸前の状況にあったユダヤ難民を保護し、彼等の命を救った事件です。
3月の北満州といえば、まだまだたいへんに寒い時期です。
ドイツや周辺諸国を逃げ出したそのユダヤ人たちは着の身着のままの姿でした。
そんな彼等の入国を、当時の満州国政府は拒否しました。
理由は、ナチス・ドイツへの遠慮です。
実はこれは、満州国に限らず、当時の世界中の諸国がユダヤ人の入国を拒否していたのです。
そんな彼等を救ったのが当時ハルビンで関東軍特務機関長だった樋口季一郎少将でした。
樋口少将は、次のように述べました。
「わずかな荷物と小額の旅費だけで野営しながらオトポール駅に屯ろしているユダヤ人を、もし満州国が入国拒否するなら、ユダヤ難民の進退は極めて重大である。しかるに『五族協和』をモットーとする、『万民安居楽業』を呼号する満州国の態度は不可思議千万である。」
そして友人で南満州鉄道の総裁の松岡洋右に連絡を取り、満鉄の救援列車の出動を命じてもらいました。

話を戻しますと、こうして「臨時の」救出列車は、ハルピンと満州里駅を13回往復し、オトポール駅に集まっていたユダヤ人全員を救出しました。
このとき救出されたユダヤ人の数は、一説によれば二万人、そのユダヤ人の方々が、満州のハルピンで歓迎を受け、そこから上海などを経由して米国へと疎開していきました。
これが、オトポール事件の概略です。 (次号へ続く)